言語学, 倫理学

『差分』と『区分』の距離感とニュアンスの話

 はじめまして、お初にお目にかかります。人文一年ちゃいなみと申します。まだ人文学ビギナーの私ですが、皆さんに意見を表明し反応をいただくことで学を重ねていければと思っております。よろしくお願いいたします。

序文:人文学徒らはかく語りき
事の発端は1月20日(土)のこと。主に私と人文学類一年の友人三人が語った差別の話に因るものである。ここでは、いくつか重要と思われるツイートとリプライをいくつかピックアップしながら、いくつかの話題に言及してみたいと思う。会話の参加者の発言は専攻に依る部分が多いので以下の引用文には、名前を伏せる意味も込めてそれぞれの専攻名を付すものとする。なお、ツイートを引用する際には内容は改変していないが、改行等、内容に直接関係しない部分について省略した部分がある。

主文①:『差別』と『区別』の差異はどこか?

~以下、1月20日のツイート~

言語学徒(以下G):差別的な用語狩りをして、代わりに配慮された真っ白な言葉を使っても結局はその言葉も差別的になってしまうんだよ……便所がお手洗いになって、さらに化粧室ってなるみたいにね。言葉だけを廃しても無駄だぞ……。

G:んまあ手垢が付きすぎてつかうのに抵抗がある、そういう用語はあるよね。個人のレベルとして使わない選択肢は別に良いんだけど、社会で差別用語として扱われてないものを他者に使わないよう強制するのは違うよね…当事者がやめるよう声をあげた場合は別として

民俗学徒(以下M):差別と区別の差異 #とは。なんで「差別」にだけ、それこそ差別的な意味が加わったのか

G:並列関係のものを「区別」、上下関係のものを「差別」として呼び分けたら「差別」に差別的な意味が付いてしまった感ある

哲学徒(私、以下T):やはり区という左右の分け方に聞こえる響きと差という上下の分け方に聞こえる響きが心象を分かつな?

~ツイートここまで~

 差別と区別の違いはどこにあるのだろうか。区の持つ「分ける(上下左右は指定していない)」とは違い、差には上下に分けるニュアンスが内包されているというイメージが強い。これは、数学で引き算のことを日本では『差』ということも「何かから何かを取り除いた状態」に繋がるイメージを生み出す一因なのではないか。と考えるが、ともかく、『差』という語に我々日本人がマイナスのイメージを抱くことは確かだ。つまり「これは『差別』じゃない。『区別』だ。」という主義主張を唱えるときの人間の心理は、「私は、この人(集団)を下に見て侮蔑しているわけではありませんよ。棲み分けを図っているだけなんです。尊重していますよ」という、あくまで同列にものごとを見ていることを表明することで免罪符を得ようとしていると考えられる。つまり日本語においては『区』にはマイナスのイメージがもたれないが、『差』にはマイナスのイメージが強く結びついているのだ。

主文②:カテゴライズと差別

~以下、1月20日のツイート~
T:「ちゃいなみを観察するのは面白いよ」は差別じゃないの?ちゃいなみの事を個人として捉えてませんけど?人間として面白い人と見ている区別ではなく、観察という一歩引いて関わりを拒んでいるけれどこれは差別ではないの?

G:なんとなく、個人に対して差別はあまり使いにくい気がする、悪口…?
ちゃいなみがある集団を表す概念だったら差別だよ

T:これ。結局帰属集団で見てるから、カテゴライズしてるから起こる差別が多すぎる。色、思考、嗜好、形状。それも問題臭いし、「差別でしょ!」と(良くも悪くも)守ってくれるリベラリストが個人にはいない。だいたいそういう人もカテゴライズでしか差別を認知しないから

G:そもそも言葉自体がカテゴライズするための道具だからね。抽象化する能力が思考を発達させて人間を進歩させてきたんだけど、その弊害の一つが差別問題なのではないかな、と

人類学徒(以下Z):「被抑圧民族はすべて理想の人格者であるという大前提」
あからさまなものは最近見ないけど、根底にはある。マイノリティは正しい、みたいな

T:結局弱者の概念を共有している。
何処かで弱者だと思ってるから差別になる。強弱という縦の指標を用いて測る

T:差別は差別する側の意識でも差別される側の意識でも、外部の意識でも成り立ってしまうから、「ビジネス情報」に人文が併合されるってなった時に「そんなの嫌だ!」「人文差別だ!」と内容(待遇や計画)も分からないのに差別にされてしまう(あれはデマだけど)

G:差別と言葉に表した瞬間から差別は生まれるのだ…例えば「ウェイは人文を差別している!」といえばその瞬間から人文は差別される者になるともいえる……

Z:人文の被差別意識とか、共通の敵がいるから団結しなきゃ!みたいな風潮危ないと思う(どこ口が感はある)

M:当人同士が気にしてなくても第三者の介入があり得るのか。嫌うことと差別の違いがちょっとよく分かってない。嫌う理由を相手の所属するカテゴリーに求めたら差別になる?

T:正直それは差別とされてそのカテゴライズが認知されてるかの問題だと思う。
「ネタツイッタラーだからちゃいなみが嫌い」は、「あぁ、真面目なツイートが好きなんだな」になるけど「陶芸やってて、土にまみれてるからちゃいなみ嫌い」は、「ブルーワーカー差別!」になるような

~ツイートここまで~

 『差別』という単語の適応範囲はどこまでなのだろうか。上述の「ちゃいなみを観察するのは面白い」という発言は例示ではなく、実際に私自身が言われたことのある言葉のひとつである。前項で、差別はマイナスのイメージが付随する言葉として現在使われる。というようにまとめたが、上下を区分するだけの言葉であれば、『観察』という言葉を用いることで私を見下した(彼女はその意図はなかったかもしれないが)かつてのクラスメイトにも『差別』という言葉が適応されるが、この話に対して今回のGの様に「それは酷い『悪口』だったね」という言葉で返されることが多い。悪口であることは確かだが、どうしてこの言葉は『差別』だとは言われにくいのか。なぜ、『差別』は共通項を持つ集団に対してのみ使われがちなのか。カテゴライズの上にしか差別は成り立たないのか。個人に対して『差』を作って『別けて』も『差別』にはならないのか。集団が受けた害は「差別だ!」と良くも悪くも騒ぎ立ててくれる人がいるのに対し、個人には騒ぎ立ててくれる人がいないのは『差別』ではないのか。
カテゴライズとその上に存在する差別についての疑問について並べてみたが、私見としてはやはり『だいたいそういう差別について騒ぎ立てる人もカテゴライズでしか差別を認知しないから、個々人の差別への問題は着目されにくいのではないか』と思う。主に観測者(被害者にせよ、加害者にせよ、第三者にせよ)が差別としてカテゴライズ化されてるものに、加害者が被害者を分類した。と思われる場合のみに『差別』とされ、それ以外のカテゴライズ、またはカテゴライズ化できない一個人への評価は、主に『悪言』に分類されることが多そうだ。
つまり、差別概念が____このカテゴリは、『”普通”なもの』と並列には並べられないよね。という感情が____共有されていて、私たちはそれに基づいて、『差別』を責め立てているわけだ。
これを考えると、『差別』だと感じる感情が最も人を差別していることになる。『差』だと認知しているからだ。しかし、上に引用したGの発言の通り『そもそも言葉自体がカテゴライズするための道具』であり、私たちはカテゴライズという行為なしには生きることができない。そして、カテゴライズが悪であり、その概念が存在しなければいい。という議論に持っていくこともできない。カテゴライズすることがなければ、私たちの社会は無秩序なものになり、継続不可能なものになるからだ。

結論:差別への私見
実は、結論で私が言いたかったことはGがツイートの中ですでに述べているのである。『
G:そもそも言葉自体がカテゴライズするための道具だからね。抽象化する能力が思考を発達させて人間を進歩させてきたんだけど、その弊害の一つが差別問題なのではないかな、と』という部分である。私たちはカテゴライズ化という無意識化の作業を打ち止めることはできないし、それをすべきでもない。カテゴライズ化は必ず必要なものであるし、それなしで生きていけないのは明白である。しかし、カテゴライズ化がある限り____上下という分類を無意識に成してしまう限り____、確実に差別はなくならない。そして、現行社会では集団ばかりが差別の対象となるが、差別の語を考えれば、個人も差別の対象になりうる。しかし、この考え方が周知・共有されれば『差別の被害者』がまた一人、一人と増えるだけであるので、この文章を読んだ人間のうちで共有されるくらいがちょうどよいのかもしれない。

 

“『差分』と『区分』の距離感とニュアンスの話” への 4 件のフィードバック

  1. 言葉の持つカテゴライズの機能、そしてそこに不可避的に生じる差別という根本問題に対するいい対話だったと思います。
    人間はカテゴライズなしに事象を認識することができるかと言えば恐らく不可能でしょう。そうした場合に、現在起こっている差別問題をどう解決するか。あるいはそこに対する考えをどう転換していくか。問題は尽きませんね。

    余談というか別件ですが、この記事自体のカテゴリーとタグを設定しておいてほしいですね。読者がこの記事を認識するときの助けになると思いますよ。

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  2. カテゴライズという行為をしたときになされるのが、即ち「差別」なのか、という疑問があります。
    まず、「区別」と「差別」は並行関係にある概念なのでしょうか。
    というのも、「区別は中立的、差別は負のイメージ」とおっしゃっていましたが、となるならば、「差別」は「区別」に内包される概念、すなわち種概念であるとは考えるのが自然ではないでしょうか。
    このように考えると、カテゴライズ=「区別」から、ある要素をもって「差別」という観念が生まれていると考えられます。つまり、カテゴライズすることと「差別」することには、ワンクッションおかれた概念なのです。おっしゃるところの『差』とカテゴライズすることは、等値な概念ではなく、カテゴライズ化しても『差』を生じない「区別」の状態があると考えることができます。
    このように措定するならば、「区別」から「差別」が成立するような条件を提示する必要があります。では、その条件とはなんなのでしょう。ここまでくれば、言語的な問題を脱して、純粋に『差』というカテゴライズから外れたところにある、今の議論の段階においては解決可能性をもつ問題として論じることができるのではないでしょうか。

    上記、いかがお考えでしょう。

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  3. >范太郎さん
     >カテゴライズという行為をしたときになされるのが、即ち「差別」なのでしょうか
     →そうではないと考えています。結論と結論文の手前でもいくらか論じていますが、言葉によるカテゴライズという行為は必ずなされるものであり、それは絶対悪ではないととらえています。しかし、差別がカテゴライズという行為に依存したものである。したがって差別はカテゴライズのうちからでしか生まれない。というところであります。
     >「差別」は区別に内包される概念、すなわち主概念であると考えるのが自然ではないでしょうか
     →すみません。かいたつもりになっておりました。といいますのも、Twitter議論の段階で「自分と相手の間に線を引いて(区別)その上で相手を不当に貶める(差別)か…??」という議論がありました。引用したつもりになっておりました。「区別」の中でもその区別に上下という条件を加えたものが差別なわけですから、確かに種概念でありますし、私としましても、内包されているものだと思います。

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  4. 返信ありがとう。種概念のほうは理解いたしました。
    前半部については、私の言葉足らずでありました。

    >差別はカテゴライズのうちからでしか生まれない。
    という点と
    >言葉によるカテゴライズという行為は必ずなされるもの
    という点、これらを「カテゴライズが絶対悪ではない」としたうえで、そのうえに『差』という「上下の観念」を導入することで「差別」が生まれるとおっしゃっていると思うのですが、これをまとめると、
    未分節の状態-(言語によるカテゴライズ)→「区別」された状態-(上下の観念による評価)→「差別」が生じた状態
    となると思うのですが、私が「即ち」といったのは、この中間項を抜いた状態で、「差別はカテゴライズのうちからでしか生まれない。」と言ってしまうと、直接要因たる「上下の観念」の決定的な作用を飛ばして、より類的である「言語によるカテゴライズ」という作用を特段に重視することによって議論の対象をわかりにくくしているのではないか、ということであります。

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