西洋思想, 哲学, 哲学史

愛の思想ーアウグスティヌスー

1.愛の秩序

まずキリスト教における愛の掟とは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」[i]と言われるものだ。こうして、個人はひたすらに神を愛すること、さらに隣人を自分と同じように愛することが義務のように語られている。では、ここで言われている「神を愛すること」と「隣人を愛すること」をどのように理解するべきだろうか。そこで重要な考え方として「秩序づけられた愛」というものがある。これは次のように言われる。

さて物事を正確に判断する人は正しく聖く生きる。このような人は秩序づけられた愛をもっている。こういう人は愛してはならないものを愛することのないように、愛すべきものを愛さないことがないように、より少なく愛すべきものを、より多く愛することがないように、あるいはより多くか、より少なく愛すべきものを普通に愛することがないように、あるいは普通に愛すべきものを、より少なく、あるいはより多く愛することのないようにつとめるべきである。[ii]

つまり、愛する対象について、しかるべき愛し方をしなければならず、それができるのが「秩序づけられた愛」をもっている人であるということだ。この秩序の中で、隣人愛の実践が自分を愛することと同じように求められることがわかるのだ。そのためにまずは、神への愛を中心とした秩序づけが図られることを理解すべく、愛の具体的な作用である「享受」と「使用」について考えていきたい。

「享受」と「使用」の定義は「享受とはあるものにひたすらそれ自身のために愛をもってよりすがることである。ところが使用とは、役立つものを、愛するものを獲得するということに関わらせることである」[iii]というものだ。おおまかに言うと、前者が目的として愛する、後者が手段として愛するという構図である。では、人間はどちらの愛の対象なのだろうか。享受の対象であってほしいと思うところだが、アウグスティヌスは人間は享受の対象ではないと述べている。「ところで私の見るところ、人はその人としてではなく、それ以外の理由で愛されなければならない。」[iv]つまり、隣人への愛と自分への愛はどちらも「使用」によって規定されるということだ。なぜなら「享受」の対象となるのは、神のみだからである。アウグスティヌスは次のようにも言う。

いかなる人も、自分自身を享受の対象としてはならない。このことはよく注意してみればあきらかである。人は自分自身を自分自身のために享楽すべきではなく、悦び所有すべき方のために、自分自身を大切にすべきだからである。…けれども自分を自分自身のために大切にしている場合には、自分を神へと関連付けることなく、自分自身の方を向いており、変化することのないものにと転換していない。[v]

自分を愛することは良いことではあるが、享楽の対象として愛する、すなわち自分自身のために愛してはならない。あくまでもその目的的な愛は神に向けられていなければならないのだ。自分を愛するのは、本来それも神のためにしなければならないということだ。それが愛の正しい目的であり、こうして愛は秩序づけられる。では、次に考えなければいけないことは「隣人」とはいったい私たちにとって誰を指し示すのか、そして隣人は「使用」の対象であるから手段として愛されるのか。ということだろう。それを次節で論じていく。

 

2.隣人愛とは何か

隣人と言っても、読んで字のごとく「隣の人」という意味ではない。キリスト教倫理において、そのように特定の誰かを愛の対象として「特別扱い」してはならないからだ。しかし、神でないわれわれ人間は、すべての人と出会えないので、出会った人々のかぎりで神の愛、すなわち分け隔てのない愛を実践しなければならない。それが隣人愛の実践であり、よって隣人とは偶然近くにいた人のことを指す。そのことをアウグスティヌスは次のように説明している。

ところですべての人を平等に愛さなければならない。けれどもすべての人を助けることはできないのだから、せめて時間と場所といった情況に制約されて、いわばある種の偶然によってあなたに結び付けられた人々に対してせいぜい心をくだくべきである。[vi]

また同じような意味で隣人は「くじで選ぶしかない」とも言っている。ここまで論じてきてわかるように、キリスト教の愛においても、人間は神のみでなく他者とも向き合うということだ。ここで問題となるのは、隣人愛において「他者」とはいかなる存在であるか、ということである。前節でも述べたように「アウグスティヌスはこの自己と他者の関係を、『享受』と『使用』という愛の具体的な働きによって分析している。」[vii]つまり、それ自身が目的として愛すべき「享受」の対象は神だけであるから、結局人間は手段として愛される「使用」の対象にすぎないのだろうか。それについてアーレントは次のように分析している。

隣人への愛(リーベ)と自己自身への愛(リーベ)とは、「使用」によって規定されている。けれども、ここで「使用」といっても、それは決して人格が手段として扱われることを意味するものではない。そうではなく「使用」とは、愛(リーベ)に先立って存在している秩序が作り上げられている価値の序列の指標にすぎない。[viii]

ここで言われていることは、他者を「使用」の対象だと積極的に評価しているわけではなく、神への愛が中心に置かれる愛の秩序において、愛に先だって定められた序列(神の絶対的優位性)に当てはめて考えた指標にすぎないものだということだろう。また、隣人が愛すべき身近な存在であることも、この「神のみが享受の対象である」というテーゼから導くことができる。それは、「ただ隣人もまた、わたし自身が神の前に立っているのと同様に、神との関係におかれているからである。」[ix]それによって、人間は(あくまでも偶然に)身近な人と自己は同一の立場に立つものとして理解され、そこから「隣人をわたし自身を愛するように愛さなければならない、ということが生じてくる。」[x]こうして、隣人は単なる手段としての対象にすぎないという意味ではなく、愛の秩序の位置づけ問題にすぎないことがわかり、さらに、その秩序づけにおいて論じられる神と享受によって隣人を身近のものとして自分を愛するように愛さなければならない存在であるということも確認した。では次に、どのようにして他者は愛すべき身近な存在である隣人として我々と出会うことができるのかについて、アーレントが「われわれが他者と隣人として出会うのは、『社会的愛』(caritas socialis)においてなのである」[xi]と述べていることを手掛かりに考察していきたい。

まず、「社会」が意味する範囲であるが、注目すべき概念は「信仰」と「運命」である。アーレントが分析しているように、社会における個々人の結びつきは「共通の信仰の事実に根拠づけられて」[xii]おり、さらに「個々の人間は、…運命を共に担う仲間たち…を持ち、…この事実にこそ、人びとを相互に結びつけている『結合関係』が存し、同時に彼らの盟友関係としての『社会』が存する。」[xiii]そしてこうした人々の結びつきが、「平等性」を生み出すのだという。この「平等性」は隣人愛で言われている「自己自身を愛すように隣人も愛せ」というテーゼと通ずるものだと思われる。なぜなら、社会における人々の平等性は「神の前に立つ存在として、すべての人間は平等であり、同様に罪人なのである」[xiv]ということにつながり、「他者は根本的にあなたと均一であるので、つまり、他者はあなたと同様に罪ある過去を持っているので、それ故にあなたは彼を愛すべきである」[xv]と結論付けられるからである。ここまでみてきたことから、いかにして「他者」から「隣人」になるのか、ということがわかる。アーレントは次のように言う。

この他者がわれわれにとって隣人となるのは、個々の人間が『神の前に』孤立した存在となることによってのみ可能である。つまり、個々の人間は、神の前で自ら孤立化する時、万人が相互にその中で生活している自明の相互依存性から召し出される。

つまり、他者が隣人となるのは、「信仰」を共有し、神の前における自分を含めたすべての人間の平等性を自覚することで、相互依存的な社会の基盤が作られ、その中で平等な愛の対象としてその他者を認識するときである。このように、社会の中の相互依存的な関係から導き出される「平等の愛」によって、われわれは他者と隣人として出会うことができるのだと言えよう。

[i] 金子晴勇編『アウグスティヌスを学ぶ人のために』p188

[ii] アウグスティヌス『キリスト教の教え』p58

[iii] 上掲p31

[iv] 上掲p50

[v] 上掲p50

[vi] 上掲p59

[vii] 金子晴勇編『アウグスティヌスを学ぶ人のために』p201

[viii] ハンナ・アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』p54

[ix] 上掲p54

[x] 上掲p53

[xi] 上掲pp131-132

[xii] 上掲p145

[xiii] 上掲p145

[xiv] 上掲p147

[xv] 上掲p155


【参考文献】

アウグスティヌス『キリスト教の教え』(『アウグスティヌス著作集6』所収) 加藤武訳 (教文館,1988年)

金子晴勇編『アウグスティヌスを学ぶ人のために』(世界思想社,1993年)

ハンナ・アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』千葉眞訳 (みすず書房,2011年)

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